【映画】"来る"の原作との相違点や考察!
ホラー映画は一人で観に行けないので、
CC2ファンの"お姐さん"と、
別日に面白上司に付き合っていただきました!
"最恐エンターテインメントが来る"
中島哲也さんの"渇き。"以来の4年振りの作品。
告白のようなトラウマ要素はないと信じたいが
松たか子さん出てるので不可能・*・:≡( ε:)
よく考えると小松さんも妻夫木さんも
"渇き。"に出てたし、勝手知ったるメンバーで
やりやすかったんだろうなと勝手に推測。
『告白』『渇き。』『来る』
— しおぎ@おっさんの居ない生活は無気力。 (@ewan3112) 2018年12月21日
そういえば、と思って予告見返したら中島さんの映画はあくまでも"エンターテインメント"という体なのを思い出した。どれも"エンターテインメント"で片付けられない内容なんだけど、中島さんはエンターテインメントとして作ってるんだよね。面白い。 pic.twitter.com/6u9zCHm5CU
原作小説が角川ホラー文庫と知った時点で"ミステリー寄りのホラー映画"と予想はついていたけれど、予想を遥かに上回るミステリー映画になっていた。しかし、表向きはホラー映画なので、心臓が飛び出るような場面ももちろんあるし、それがとにかく怖いので、鑑賞後も震え上がっている。夢に出そう...(笑)あれやこれやと考察できる映画はやっぱりいいなぁ、と感じている。一つだけ言わせてほしい。
— しおぎ@CC2垢 (@shiogi2113) 2018年12月20日
"来る"はホラー映画ではない。
怖いけど。
リングのような怖さではない。
怖いけど。
少しでも気になる方は映画館へどうぞ。
ざっくりとしたあらすじ。
オカルトライター・野崎(岡田准一)は、身の回りで不可解な出来事が続いているという田原秀樹(妻夫木聡)からの依頼を受ける。
野崎は巫女である比嘉真琴(小松菜奈)らと共に調査に乗り出し、そこで正体不明の"訪問者"と対峙することになる。
正体不明の訪問者"あれ"は恐らくジャパニーズホラー代表の"貞子"並にしつこいんだけど、貞子さんの場合は"7日間"という"人生の猶予"が与えられるのに対して"あれ"に"捕まったら最期"なの本当に理不尽(笑)
※これより先、映画と原作のネタバレをします。
映画と原作の"違い"をはじめ、
しおぎが気になる点しか書いておりません。
作品の設定などの説明も不十分なので、
気になった際は映画館に足を運んで頂くか、
原作小説を読んでいただけると、
関係者並びにしおぎも幸せです。
ではいってみよー♪
映画のタイトル。
公式サイトに、原作小説へのリンクがあるので"あれ"の名前を隠したかったわけではなく"来る"=何が来るの?と視聴者の不安を掻き立てるタイトルにしたかったのかな?という結論に至った。
"あれ"の正体は"ぼぎわん"
ぼぎわんとは、人の心のスキマに付け入る厄介な怪異で、自分のよく知った人物の声などで近付くなど、知恵もある。
その"ぼぎわん"が家に来た場合は、返事をしたり、家に入れてはいけない。
もしそれが守られなければ、山に連れて行かれるか、殺される。
※実際は"呼ばないと来ない"程の凶悪な怪異である。
ぼきわんの姿は原作でしか明かされない。映画での姿は"少女"のようだった。原作の通りに"ぼぎわん"を映像化すると一周まわって"得体の知れないモノへの恐怖心"がなくなってしまう。これはあくまでもしおぎの解釈だが、お化けや神様、それらを超越するぼぎわんよりも"人間の方が怖い"ことを中島さんは"ぼぎわんを通して"伝えたかったのだと思う。これは原作を読んで納得した部分の一つでもある。
追記:映画の最後でぼぎわんが少し出ているのを2回目の鑑賞時に確認した。その姿を一言で表すならば、"大きな口"である。
原作と映画の相違点など。
第1章"訪問者"(田原秀樹)
第2章"所有者"(田原香奈)
第3章"部外者"(野崎昆)
原作はこの3人の視点で描かれているのだが、
映画鑑賞後に読んだため序盤で"仕掛け"に気付き、
少し損した気分に(´・ω・`)
その仕掛けは映画でも使われている。
田原秀樹は自分の事を"良き夫、良き父親である"と最期まで思っていた。
- 映画
秀樹はホームパーティや、イクメン友達との集会を繰り返し、妻の香奈と娘の知紗をないがしろにしている。娘が"テーブルの角に頭をぶつけて血を流す"程の大怪我をしている時、棒立ちで見ていることしかできなかったのに、病院の廊下でキーボードをカタカタと鳴らし"緊急時こそ冷静に!"などとブログのネタにしている時点でお察しである。秀樹にとって"妻子"はお飾りでしかなく秀樹は"嘘つき"だった。
しかし、"ぼぎわんから妻子を守りたい"という気持ちは紛れもない本心だった(と思いたい)
- 原作
第1章"訪問者"が秀樹にとって"都合のいい事"しか描かれていないことに気づいたのは、香奈との会話に違和感を覚えたからだ。
香奈の友人"津田"夫妻との食事の約束を、知紗に大事なのは"家族との時間"だからと秀樹が半ば強引に断っている。
映画の"津田大吾"はここで登場。
しかし、独身でもなければ民俗学者でもなく、香奈との会話の場面も1度もない。キーパーソンの1人であるはずの津田が原作では"モブキャラ"だった。津田の代わりに登場するのが"唐草大悟"漢字は違うが同じ"ダイゴ"である。民俗学者であり、独身。
おまわりさん、こいつです。こいつが(黙れ)
この辺りまで読むと、大体の状況を把握し
楽に読み進める事ができた。
映画、原作共の冒頭で真琴の姉である琴子(実際はぼぎわん)の指示に従い"おまじない"(包丁を隠したり、鏡を割ったり)をする場面は、秀樹の死ぬ直前の場面だった事が中盤でわかるのだが、"廊下に置かれた水の入った沢山のお椀"が置かれている意味がわからなかった。
琴子(本物):もしもし、聞こえますか。"真琴の姉"です。聞こえているならばすぐにその場から離れてください。それが無理ならできる限りの包丁を持って隠れるか、大きな鏡の前に行ってください。どれほど強大であれ、ああいうモノは"鏡と刃物"を嫌うのです。
琴子(ぼぎわん):聞いてはいけません。罠です。
どちらが本物か全くわからないでいる秀樹に、
ずっと電話していた琴子(ぼぎわん)が
"私も、知恵をつけたということです"
と言い放ったところでどちらが本物か気付き、
その場から必死で逃げようとするが、
"お椀で躓き、水が零れ、滑る"
水の入ったお椀は逃げるのを阻む為の"障害物"だった。
(書いていてゾッとしている)
そういえば、ぼぎわんの指示に従って割り忘れている鏡を慌てて割に行く際、転んで滑ってたのを思い出した。その場面2回あったので、やはり障害物と認識させたかったのかな。
秀樹の死因を変えた理由。
- 映画
秀樹は下半身を食われており、
ぼぎわんの正体って"テケテケ"だったりする?
というのがしおぎの第一の感想だった。
もちろん違う(笑)
- 原作
秀樹は"顔の半分"を食われて息絶えていたので
これにも何か意味が?と考えてみる。
良き父親、良き夫だと振舞っていたが、
実際はクズで嘘つき。その"二面性の半分"を、
ぼぎわんが"食った"と考えると面白い。
寄生獣みたいに頭丸々食ってやればよかったのに。
秀樹が死んだので、
第2章"所有者"香奈視点に移る。
育児ノイローゼで病んでいた香奈は、原作では(秀樹よりは)まともだった。
育児や夫に対して冷めていたのは変わらないが、知紗を鬱陶しいとそこまで感じてもいないし、"唐草"(津田)と不倫もしていなければ、知紗を真琴に預けて働けており、香奈視点の終盤は秀樹が守った知紗を守ろうと必死な良き母親だったと思う。なにより原作では死なない。
映画は少しやりすぎだったとさえ思う。
第3章"部外者"野崎視点に移る。
一番設定に手を加えられた野崎。
- 映画
野崎は元カノとの間に子どもが出来たが、中絶させていた。その場面が度々夢に出てきては、
"子どもができても喜ばない、子どもが死んでも悲しまない。私は産みたかったのに"と言われて苦しむ野崎の姿が描かれており、子どもが出来ない身体の真琴が知紗と楽しそうに遊んでいる姿を"見ていて痛い"と思っている。
- 原作
野崎はバツイチ。別れる要因は諸々あったようだが、決定打は野崎が無精子症と診断され、元嫁に"やっぱわたし、子どもほしい"と言われ、為す術もなく離婚している。
野崎の設定が全然違うのはどうして(´・ω・`)
ちなみに、原作の真琴は子宮癌で子宮を摘出していて、できない理由が映画とは違うようにも思えた。
真琴が子供を愛するのは構わない。ただ、彼女にとって子供と触れ合うのは、自分を傷つけるのと裏表だ。
"でも好きなのはしょうがないじゃん"
そのとおりだ。それは自分ではどうにもならない感情なのだ。皮肉と言えば皮肉だが、彼女が子供好きだというなら、子供ができないならなおさら、好きなだけ子供好きでいさせてやろう。
この原作の野崎の心境を映画でも伝えていたら、
真琴はおかしくならずに済んだかもしれない。
実際、心のスキマに付け入られて一番おかしかったのは"秀樹"だったのに、ほぼ全員がおかしな人間として描かれていた(あ、琴子さんはまともだけど)或いは秀樹と関わったせいで、呪われたのか。
映画の登場人物全員が"ぼぎわん熱烈歓迎"状態である。
知紗の怪我と秀樹の嘘。
秀樹視点で書いた知紗の怪我は"テーブルの角で頭をぶつけた"と秀樹は言ったが、それは恐らく嘘だ。
というのも、原作で秀樹の母と祖母は祖父からDVを受けていて、周りに怪我の理由を聞かれた際は"テーブルの角で頭をぶつけた"ことにしていたらしい。
しかも、秀樹の叔母は祖父のDVで死んでいる。
祖母:香奈さん、大事にしいや。
秀樹:うん、わかってる。
祖母:優しゅうしたりな。ずっと、面倒見たらなあかんで。嫁はな、耐えてまうんや。辛いことも、苦しいことも、悲しいことも。それがええことやと思て。どんなに"えらい目に遭わされても"
これは序盤で出てくる祖母と秀樹の会話で、
祖母は"DVは連鎖する(場合もある)"と
秀樹に警告していたように思える。
※祖父のDVは秀樹に知らされていなかったが、
そういう嫌な所こそ遺伝してしまうものでもある。
そして、秀樹は"手を挙げてしまったこと"に驚いて棒立ち状態になったのではないだろうか。
どちらにせよクズな嘘つきだが、凄い所で伏線回収していったな。と澤村伊智先生に尊敬と敬意を評したい。
オムライスの意味。
- 映画
知紗の好物はオムライス。
何が食べたい?と聞かれればオムライス。
クレヨンでオムライスの絵を描き、
オムライスの国でオムライスの唄を歌う知紗。
ところが原作ではオムライスのオの字も出てこないので、しおぎは考えた。
オムライスは"ぼぎわんの好物(?)だったら面白い"と。
知紗自身ぼぎわんだった場面も数多くあったので、終盤の知紗がオムライスの夢を見ているということは、知紗が"ぼぎわん"に取り込まれ、ぼぎわんと繋がり、まだ終わっていないことを"オムライス"で表現しているのではないだろうか。
中島さんがそこまで考えて作った脚本だとしたら、"来る"はまさに"最恐のエンターテインメント"。
オムライスの唄に狂気を感じたので、
何かしら理由をつけたいしおぎである(´・ω・`)w
- 原作
原作は"よくわからない寝言(言葉)"を喋っている知紗を香奈が見守っている場面で幕を閉じている。原作も恐らく終わっていないが、
こういう終わり方は"ホラーあるある"だ。
終わってくれ、頼む((( ´ºωº `)))
映画の琴子は生きている。
野崎と知紗を4階以上の高さから突き落とし、(普通死ぬって)真琴を逃がし、邪魔者が居なくなった状態でのぼぎわんと琴子の一騎打ち。
琴子にはぼぎわんの血が寄り付かなかったことを踏まえると、最後の場面で窓から大量の血が飛び出したのはぼぎわんが琴子を"食えなかった"ことを表していると思う。
書かなかったあれこれ。
- ぼぎわんが人(子ども)を攫う理由。
- 呼ばないと来ない程の怪異を誰が呼んだのか、その理由は。
- 琴子が自分の名前を出さない理由。
他にも色々あるけれど、
長くなったのでここまでにする(´・ω・`)
あの壮大なエンディングもすきだったけれど、主題歌を使うならアーバンギャルドの"生まれてみたい"が最適だなぁ...と、ずっと考えていた...・*・:≡( ε:)
おしまい。
ここだけの話、クズ役が似合うようになってきた岡田くんをみて、とても歓喜している( *´꒳`* )←めちゃくちゃファンです。